「答え」を探す旅

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夏の予定を立てようとして8月のカレンダーを眺めていると、いつも目に留まる日付がある。8月15日、終戦記念日。私は大学時代、ひたすら歴史研究に傾倒していた。

研究していたのは明治維新以降、第二次世界大戦前後の日本史。つまり近代史である。

この第二次世界大戦前後の歴史をタブー視している人は、きっと今でも多いだろう。私自身、学校で学んだ歴史科目で心に残っていることといえば縄文土器とか、ペルー来航とか、鎌倉幕府とか、そんなところだった。昭和史はほぼ扱われず、まともに学ばなかったと言っても過言ではない。

なので私にとっては、ほぼゼロからの学びだった。さまざまな文献や市販の書籍を読み進めた。
しかし学びを深めるほど、学びの方向性に迷いが生まれた。それはひとつの事柄を扱うにあたっても、「著者によって見解が180度違う」ということが山のようにあったからだ。

ひとつ文献を読んで「なるほどそういうことか」と納得しても、もうひとつ文献を読むとその納得が覆される。 もはや何が正しくて何が間違っていて、何が善で何が悪なのか、もうさっぱりわからなかった。

素人の私にはあまりに難題すぎて、研究を進めれば進めるほど、学びを深めれば深めるほどドツボに嵌っていく感覚だった。

歴史は過去なのだから、事実はただひとつのはずである。
それなのに、人によって解釈が無限にあり、ときには事実さえねじ曲がる。

そして色々な文献を読みながら嫌気がさしてくるうちに、ふと気が付いた。「あ、これはもう全ての人にとってのただひとつの正解は存在しないのだな」と。

事実は事実として在っても、どの事実をどう切り取るかで解釈が無限に広がっている。その解釈もさまざまな思惑が絡み合い、複雑さをきわめていた。

そこで私は史跡や博物館など、「歴史の現地」に足を運ぶことにした。自分の頭で理解するのではなく、私自身で体感し、そして自分なりの答えを得ようと思った。

この行動はまったくファクトフルネスではないし、「定量的にとらえて事実を把握し納得する」という行為からは逸脱してる。非効率的だし、非論理的だし、どうかすると非生産的だ。フィールドワークといえば聞こえはいいが、研究観点としては適切ではなかったかもしれない。

それでも、実際に自分の目で見て、触れて、感じて、想像した。
学んでた知識と、直接目にした景色を照らし合わせて、向き合い、吟味し、咀嚼した。それは世界と自分だけの静かな対話の時間だった。
そして私は何ヶ所目かの訪問先で、「これが私の答えだ」と言えるものを手帳にメモして、歴史探訪の旅を終えた。

その後の記憶は曖昧で、まとめた論文がどう評価されたのかはもはや覚えていない。私は旅先で手帳に答えをメモしたところですっかり満足してしまった。それでも、あの自分だけの答えを得ようとして躍起になっていた日々は、私という人間を強くしたように思う。

自分だけの答えがあれば、迷いが消える。
紆余曲折して得たその答えはかけがえのないものであり、それを得ようとしてきた自分の人生も尊いものであると当たり前にわかるようになる。

そして別の誰かの答えや主張がどんなものであっても、ひとつの世界観として尊重することができるし、尊重することができれば共存することもできるだろう。

そうしたら今より少しだけ、手の届く範囲の世界が優しくなる気がするのだ。

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