咲かない花を愛すること

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自分は咲けないんじゃない。咲くのが遅いだけなのだ。
 
そうやって花にたとえれば、救われる気がした。そしてそんな自分を、卑怯だとも。
 
 
 
 
 
 
 
 
「ギゼン感あって、なんかやだ」
 
今は無きアイドルグループの「世界に一つだけの花」という曲を、偽善という便利で曖昧な言葉で批判していたのは思春期真っ盛りの学生の時分だった。
 
一人ひとり違うのなんて当たり前じゃん。もともと特別なオンリーワン、「だからそのままのキミでいいんだよ〜」って甘えを許す安易なメッセージ。そのままでいい?わたしはイヤだよ。いいわけないじゃん。成長したいじゃん。
 
僕ら人間は比べたがるって?いや、自分は自分だし。べつに比べてないよ。他人と自分が違うイキモノなのは誰だって知ってる。
 
そもそものヒトを花にたとえちゃう辺りが、いかにも綺麗事ですごくヤダ。花に申し訳ない。花のほうがずっと綺麗だよ。
 
そんなぐるぐるとした思春期丸出しの思考回路で、あの曲を「偽善」だと感じていた。
 
今にして思えば、あの曲のメッセージを、当時のわたしが理解出来なかったのは当然だ。あれは大人のための歌だ。
 
ただ、今は別のことを感じる。
色とりどりの花はどれも綺麗に違いないけれど、「いつ咲くかわからない花」は誰に選んで貰えるのだろうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
人が咲く瞬間は、人それぞれだ。
何をもって「咲いた」とするのかも、人それぞれだ。
望む咲き方が主観的なものであるならば、「咲く」というのは願いが叶うことに似ているのかもしれない。
 
願いが叶って、周りから「綺麗だね」「素敵だね」「良かったね」「おめでとう」と言われている様子は、いかにも咲いているという感じがある。
 
私は良い歳なので、これらの言葉を書きながら「まるで結婚式だな」などと連想する。
なるほど、結婚に大きな意味を寄せるひとが多いことが、なんとなく分かる気がした。
 
結婚は多くの人に分け隔てなく与えられた、誰もが咲くことができる季節の名前なのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
いかにも咲いているひと、満開の人というのは周囲を見渡すと両手で足りないくらい挙げられらる。何かで一番の人、綺麗な人、優秀な人、賞賛されている人、評価されている人、楽しそうな人、幸せそうな人。
 
でも「いい感じに咲いてるね」と彼らの肩を叩いても、「そうでしょ!」と返してくるひとは半分もいないだろうと想像できる。
 
彼らは彼らなりに悩みがあるのだろう。側から見るとどう見ても咲いているのに、「咲きたいのにまだ咲かない」と悶々としている。向上心があるようにも見えるし、贅沢者のようにも見える。そんな人にこそ言いたいよね。「鏡見ろ」「周りの声を聞け」って。
 
 
もしかしたら、私も見る人から見れば贅沢者なのかもしれない。でも「鏡見ろ」って言われて見ても、映るのはいつもそこはかとなく惨めな自分だけだ。頑張って口角上げて目をキラキラさせてみたって、胸を掠める虚しさですぐに涙で視界が滲む。
 
私も咲きたい。私はいつ咲けるのだろう。それとも気付いていないだけで、もう散っているのかしら。咲かない花に水を遣り続けるのは、とてもつらい。
 
 
 
 
 
 
 
 
庭に鉢植えの桜がある。
 
自宅から少し歩けば見事な桜並木があるのだが、わたしは鉢植えの桜が好きだ。
 
神社の露店で買ったもので、まるで友人を得たような気持ちで大切に持ち帰ったものだ。
 
その桜は、両手で抱えられるくらいの白い鉢から、不釣り合いな程細い幹がひょろひょろと宙を彷徨うような軌道を描いて伸びている。伸びている、と言ってもせいぜい腰くらいの高さだ。
 
一向に太く成長する気配も、高く伸びる気配もなく、かと言って地植えするにはちょっと心配になるくらいの細さで。
 
一度は植木屋さんに状態を見てもらったものの「これでよく咲きますね」とお手上げ。
 
咲かなくてもなんら不思議ではない状態で、来る日も来る日も変わらずに、白い鉢からにょーんと生えている。
 
いつか折れてしまうんじゃないかという細さで、しかしそうは言っても桜なので。私は春には開花することを期待した。
 
 
去年の春、その桜は当たり前のように咲かなかった。
 
目と鼻の先で桜並木が満開なのを横目に、花が出るかと期待した蕾からは、次々と葉っぱが出てきた。
 
マイペースだなぁ、でもちゃんと生きてて良かった(冬はどう見ても枯れ枝にしか見えない)、と安堵した。
 
「調子悪かったのかな?それともあえて咲くのをやめたのかな。来年は咲くといいな。楽しみにしてるよ」
 
大丈夫だよ、頑張れ、としゃがんで葉っぱを見つめた。桜は何も言わずににょーんと生えていた。
 
咲かないことを少し残念には思った。けれど「なぜ咲かないのか。あの並木の桜は満開なのに」と憤り、涙することはなかった。
 
彼なりに頑張って咲こうとしていることはわかっていた。こんな細い体で咲こうと頑張って生きているのだから、それを見守っていよう。そう当たり前に想った。
 
そしてもし咲いたら、多くの桜が色んな人に撮られるように、私もこの桜をたくさん撮ろう、と。
 
桜はその年、例年通り自然の太陽と雨と風を受けながら、大きな青い葉っぱを点々と付け、病的に赤黒く紅葉し、そしてまた枝だけになった。
 
 
 
 
 
 
 
今年、鉢植えの桜が二年越しに咲いた。
 
 

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