「正義の味方」になりたいんだ。

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この言葉に、どんな印象を持つだろう。

子供じみていると笑うだろうか。
理想論だと唾棄するだろうか。
夢見がちに過ぎると、諭したくなるだろうか。

私はこの馬鹿みたいに子供じみた、理想論で夢見がちな言葉に、強い憧れを持った。今回はそんな話をしたいと思う。

 

 

若者が、夢を描くとき。
あるいは世間の波に揉まれた人々が、キャリアビジョンを描くとき。

私は職業柄、「これから」に悩む人々からこんなことをよく聞く。

「年収を上げたい」
「残業を減らしたい」
「新しいことにチャレンジしたい」
「昇格したい」

などなど。
子供が夢を語るときはどうだろう。

「サッカー選手になりたい」
「お菓子屋さんになりたい」
「スチュワーデスになりたい」

こんなところがよくある例だろうか。

いずれも全く異なるもののように見えるけれど、私は根底はすべて同じだと思っている。

要はこれらの夢は、たとえば職業であり、ステータスであり、他人から見た自分の姿なのだ。

その多くが、何らかの枠組みや基準の元で推し量る、デジタルな夢である。デジタルだから計測可能だ。計測可能だからゴールがある。成否が明確で、達成可能であり、達成したらその夢は消える。

「さて、次は何を目指そうか」

そんな風に、貪欲にまた新たな山を登り始める人もいるだろう。それが、多くの人の「将来の夢」や「キャリアビジョン」の正体だ。

でも、「正義の味方」は違う。

100人救えば正義の味方なのか。
”救う”とは何をもって定義しているのか。
何を成せば達するのか。ゴールは果たしてどこにあるのか?

アンパンマンもウルトラマンも、きっとそんなことは歯牙にもかけていないに違いない。

「正義の味方」は、いわば生き方そのものだ。

職業ではなく在り方であり、ステータスではなく信念であり、他人から見た自分ではなく、自分の心の奥深くを見つめた際に浮かび上がる、自分という人間の本質の姿だ。

目指し続ける限りゴールはなく、何を成せば達するというものでもない。

だから私は、「正義の味方になりたい」という言葉を見たとき、強い衝撃を覚えた。そして強烈に憧れた。

なりたい職業や手に入れたいものについては、寝ても覚めても夢見たことはあった。けれど、生き方や在り方に焦点を当てたことはない。

サッカー選手になるには才能がなかった。
お菓子屋さんになるには経験がなかった。
スチュワーデスになるにはもう遅かった。

そもそも、何か一つをずっと目指してきたというわけでもなかった。

それでも。たとえこの先、肩書きやステータスもなく、何者にもなれないただの「私」であったとしても。
掲げた生き方、確固たる「私」の信念のもとで生きていく。そんな自分で在りたいと、心のどこかで願っていたのかもしれない。

自分は、どんな生き方をしたいのだろう?
どんな人間になりたいんだろう?
どんな人間で在りたいんだろう?

「正義の味方になりたいんだ」

この言葉をに触れるたび、今でもそんな問いを自分に投げかける。

 

【思考の起点】Fate/stay night

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